評判の本丸をじっくり見てみよう♪
ここのところ、ちょこちょこ時間を見つけては、強行軍であちこちにお出かけをしていました。
現在は、両親の顔を見に実家に来ていて、のんびりムードでリラックスしております。
さて、そんなお出かけ強行軍の中で、先日、素晴らしい体験をしましたので、そのご報告です。
ところは会津若松市です。
どこから書くのが一番いいかな、と考え……まずは私の予備知識、それから会津若松市に行って得た情報、そして結末、という順序が一番理解してもらいやすいと思いますので、ちょっと長くなりますが、どうぞお付き合い下さい。
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私は意外と幕末に詳しいです。
というのは、その頃に自分の過去世があるからです。
といっても、その時の過去世のことをすべてハッキリ覚えているわけではなく、断片的に覚えている程度ですが、幕末に関しては自分がいた時代ですから、とても興味があります。
でも、それも、大政奉還あたりまでで、王政復古くらいからは一気に関心が薄れ、なぜか明治維新に至ってはまったく興味がありません。
ですから、江戸城無血開城や戊辰戦争などは、教科書に2~3行書かれていたその程度のことしか知識がなく、白虎隊の名前も、一応、知ってはいますが……。
「まだ若い、少年の隊士たちが、新政府軍に敗れて飯盛山で集団で自決した」という、これだけしか知らないです。
そんな状態だったので、会津藩には特別な思いなども持っていなくて、大河ドラマ「八重の桜」も見ていないです。
たまたま会津若松市を通過することになり、マップを見ていたら「会津武家屋敷」という文字が目に入ってきました。
「武家屋敷を何軒か保存しているのだろうな」と想像し、単純に古いお屋敷を見たくて寄ってみると、そこは軽いテーマパーク色を帯びた施設となっていました。
資料館もありますから、私のように会津藩について深く知らない人が行くと、基礎を学べるようになっています。
あ、でも……藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職をしていて、尊王攘夷派弾圧を行なったことは……よく知っています。
新撰組の親分、という印象でした。
その松平容保は明治26年まで生きていて、「あ、そうやったんや~」と思い、日光東照宮の宮司をつとめていたということも知って、「へぇ~!」と驚きました。
なんとなく、戊辰戦争で亡くなったのだろうと勝手に思っていたからです。
「会津武家屋敷」のメインの建物は、家老だった「西郷頼母(たのも)」の屋敷です。
この西郷頼母も明治36年まで生きています。
松平容保の子孫は各方面で活躍しており、宮家に嫁いだ孫がいたりもして、新政府軍と戦ったけれど、藩主も家老も静かで平和な余生を送ったのだな、と思いました。
さらに、会津藩の藩祖が、第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)だったと知り、「ああ、それで……」と納得した部分もありました。
幕末の、世の中の状況が刻々と変わっていくなかで、どうして最後の最後まで会津藩は幕府側だったのだろう、とそこがわからなかったのです。
藩祖の教えなどの影響があったようです。
家老西郷頼母のお屋敷はとても大きくて、「赤穂城の本丸御殿より大きいんちがうかなぁ」と、赤穂城本丸御殿の遺構を歩きまわったことがある私はそう思いました。
「会津藩、お金持ちやったん?」とも思いました。
そのように展示されているものを見ていて、西郷頼母一族の女性と子どもの集団自害があったことを、ここで初めて知りました。
鶴ヶ城(会津若松城)に籠城する男性の足手まといにならないように……ということだったらしいです。
西郷頼母本人は明治36年まで生きているので、この悲劇の詳細を読むのはつらく……素通りさせてもらいました。
戊辰戦争の中でも、「会津戦争」と呼ばれる、この地での戦いの最後は籠城だったそうです。
1ヶ月籠城で戦った会津藩でしたが、最終的には降伏をし、開城によって戦争は終結しています。
私は、この籠城を知った時に、
「あれ? 白虎隊の少年たちはどうして自決したん?」
「籠城に加わればいいのに、なんで死を選んだのだろう?」と不思議に思いました。
それも飯盛山という、お城から離れた山の中で、なのです。
なんで? どうして? という疑問が湧いてきました。
※続きます。
クリックをするとユーチューブで曲が再生されます。
天から聞こえるメロディを曲にしています。
本丸を民主主義のアプローチで考えて何かいいことあるの?
休みにテンションが上がったねんどろ審神者の迷走の産物です、御笑覧くだされ。
今日カラオケ行った帰りにキャンドゥに寄って色々とねんどろくん達に使えそうなもんを買いこんできたんだけど、その時「モケモケ極太モール」なるものを発見してこのモケモケ感ならうさ耳いけるんじゃね?と思い、ついでに小さいフェイクファーのポンポンも買って、やってみた。
白うさぎなら絶対つるさんだろーと思ったけど間違いないなーさすがしろまんじゅうかわいい…
今度黒いモールと紫のポンポンで伽羅ちゃんに黒うさぎさん作って押し付けよ。
かわいいが過ぎる…;;;;;;;;
次は本丸の床の間進捗記事だといいなー。色々な寸法で迷ってるというか、悩んでるというか。どっちにしようかな状態で中々進まんのであった。
本丸に関するいろはにほへと
「金沢城石川門」を潜り抜けた目の前には、内側に控え柱が、外側に出窓を設けた格式高い土塀が続きます。そして、振り返って三の丸広場方向を眺めると、右手に復元「河北(かほく)門」がデーンと構え、中央に復元「五十間長屋」が広場の奥に横たわります。
白い鉛瓦と海鼠壁を持つ美白建造物には、ウットリと見とれてしまうほど優雅であり且つ雄大さが伝わってきます。
まず右手にある復元「河北門」ですが、東側に広がる曲輪「新丸」から登って入城する門で、高麗門(一の門)と櫓門(二の門)と土塀で構成する桝形となっています。当門は、江戸時代には「大手門」から「新丸」を通って入城する正門として使用されていました。
復元「河北門」の櫓門(新丸から三の丸への門)
復元「河北門」の高麗門(向こうは新丸)
復元「河北門」櫓門内部
石川門から西北側へ延びる土塀
元々は、「石川門」と同じように櫓が付随していたようですが、宝暦の大火で焼失した後は櫓ではなく土塀に飾り窓を設けた「にらみ櫓台」になったそうで、今回の復元もそれに準じたそうです。「河北門」から「新丸」を一望できる位置に建てられていたことから、三の丸以内へ入城する者の監視の役割も大きかったと思われます。
「河北門」から新丸をのぞむ
「河北門」のすぐそばには、復元「二の丸菱櫓」が建ち、そこから西側に向けて復元「五十間長屋」が続きます。この中に入る為には、この長屋の前の堀沿い西側へ歩を進めて、復元「橋爪門」を潜り抜けて「二の丸」側からでないと入れません。
復元「二の丸菱櫓」(三層三階)
復元「橋爪続櫓」と復元「五十間長屋」
従って、復元「橋爪門」は「二の丸」の正門となっていて、堀の橋を渡り高麗門(一の門)、櫓門(二の門)そして土塀による枡形内を抜けて入城しますが、門の脇には、復元「橋爪門続櫓」という物見櫓が睨みをきかしています。「橋爪門」の桝形を囲う土塀には飾り窓(出し)が2箇所も付き、更には櫓門(二の門)の床には、二の丸御殿と同じように戸室石が敷かれるなど、金沢城三御門(石川門、河北門、橋爪門)の内、最も格式が高い門でした。
復元「橋爪門」の高麗門
復元「橋爪門」の桝形内から櫓門を見る
復元「橋爪門」の桝形内土塀に付く飾り窓(出し)
復元「橋爪続櫓」
復元「橋爪門・橋爪続櫓」と「五十間長屋」
そこを抜けると「二の丸御殿」が建っていた「二の丸」跡でこちらも広大な広場になっています。「二の丸跡」から見る「五十間長屋」は、ひと際美白効果が際立ち美しさに圧倒されます。建物内部には、裏側中央から入場します。
復元「河北門と橋爪続櫓」・復元「五十間長屋」(南側から)
復元「二の丸菱櫓」と復元「五十間長屋」(二の丸跡側から)
復元「五十間長屋」(二の丸跡側から)
西側の復元「二の丸菱櫓」は三重三階で、石落としは、「千鳥破風」と「唐破風」の出窓形式になっています。また興味あるところでは、「菱櫓」の謂れとなっている「菱形」構造である櫓の角(かど)の角度、鈍角100度、鋭角80度となっているのを、目で確認することができることです。
復元「二の丸菱櫓」の内部1階
復元「二の丸菱櫓」の内部 北角部で100度
復元「二の丸菱櫓」の内部 東角部で80度
それを確認した後は、長屋の中をまずは二階から見学して、「橋爪門続櫓」まで歩き、そこで下へ降りて今度は一階を歩いて戻ることにします。元々は、二の丸を守る為の建造物だったので、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁の防火構造になっていますが、
その後は武器などの倉庫として使用されました。
復元「五十間長屋」の二階内部
復元「五十間長屋」の一階内部
内部は、伝統的な木造軸組工法に加え、階段昇降機やエレベーターなどを設置し、二階まではバリアフリーとなって復元されています。
次回ブログでは、二の丸跡から本丸跡へ向かいたいと思います。
本丸 関連ツイート
・「特命調査 聚楽第(じゅらくてい)」
・謎の人物が現れる、本丸に特命が下される
・まんばちゃん!?っぽい布の人が発表
・聚楽第の元ネタは、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(現在の京都市上京区)に…
・「手入完了」ボイスについて
手入が完了している状態で手入以外の画面から本丸へ移動したときに、近侍の手入完了ボイスが再生されます。
※ゲーム起動時には手入完了ボイスは再生されません。
※手伝い札を使用した際は再生されません。
#刀…