本丸 上空サプライズ!
私は福岡県久留米市の出身であり、ここは幼少期と小学4年生まで過ごした。今回里帰りしたので、かつて住んでいた久留米へ行ってきた。
ついでに、あの悪の枢軸四天王の1人、細川博司センセの
本丸へ接近調査した。
ここは西鉄久留米駅
ここからJR久留米駅へ向かい道路を明治通りという。私はこの辺りを小さい頃よく来た。
1953年(昭和28年)の西日本大水害の時、筑後川が氾濫しこの明治通りまで浸水したと聞いた。
この明治通り、及び隣接する商店街を一番街、二番街といい、かつて1990年代まで久留米市で最も賑やかな区画だった。
休日には多くの人で賑わったものだが、今はその面影すらなくシャッター通り商店街と化した。原因は郊外の大規模ショッピングモールらしく、客足は皆そちらに向かったからだという。
最近ではご覧の通り、韓国🇰🇷料理店などの海外勢が目立ち、非常に哀しい。
一番街をしばらく歩いていくと…
一番街総合診療所を発見‼️
ナニナニ❓あきらめない癌治療❓
癌は怖くない、、だって⁉️
しかも、ハゲや男性の悩み治療もするだとよ。
俺のハゲ治してくれんのか⁉️😆😊😆
そういえこの細川センセ、余程暇なのか、一日中Facebook投稿ばかりしていて、閑古鳥が鳴きまくりといった印象が強いが、私が写真撮影する直前、1人の中年女性がここから出てきて、恐らく細川の信者だろう。
隣は健康食品ショップだが、何らか怪しそうな雰囲気。ひょっとしてグルではないか❓
記念にパンフを一枚持って帰る。
皆さんお馴染みの細川センセのパンフ
こりゃ若い頃の写真でないか⁉️
この細川センセ、Facebook投稿の時も他の記事のシェアばかり、他人のコピペばかりでオリジナルがほとんどなし。あの米国在住🇺🇸の女帝ですら、細川には腹を立てていた。
そしてこの一番街診療所、実際には一番街の商店街側に入り口がある。さっきの写真がそうである。が、彼のサイトには逆の明治通り側から撮影した写真が載っている。これがそうだ。
こちら側からの方が、建物が立派に見える。MYMというマンションの1階と2階部分だけらしい。
因みにこちら側からだと、こんな狭い入り口しか入れない。⬇︎ 明らかに防犯カメラが見える。
最後に駐車場からこな場所を後にしたが、ポルシェが一台止まっていた。細川センセの車かな❓と色々想像しながら。
この一番街の一角はこんな場所が…
懐かしい風景を見た。
帰りがけ、たまたま偶然にもこのクリニックの広告を発見した。
バスト豊胸、脂肪溶解、ほくろ除去に包茎手術と色々手広くやってるな…と。
しかも、彼はあれだけFacebook上で「インフルエンザワクチンは打つな」と言っておきながら、インフルエンザ予防接種❓ わけわからん。
最近の彼のFacebook投稿
そうか、メガバンク一行くらい潰れても不思議ではない。男に二言は無し。楽しみに待ってるからな‼️
本丸は通販で大ヒット中、お気に入りの品のひとつになる商品です
総裁三選確実でも、安倍政権が「消費税増税」で吹き飛ぶ可能性 麻生も財務官僚に乗せられている
このさじ加減を間違えてしまえば、せっかくの三選も、まったく意味のないものになる。本人も自覚してはいるが、財務省の狡猾な包囲網はジリジリと周囲を追い込んでいる。安倍は窮地を脱せるのか。
増税は退陣につながるぞ
石破茂の孤高の闘いも虚しく、9月20日の総裁選では安倍晋三が三選されることが、確実視されている。だが、体調不安をおして総理の座を延長したところで、その道のりは限りなく険しい。
2度にわたって延期をはかった消費税増税が、来年10月に待ち受けているからだ。
8%から10%への引き上げ――。もし増税すれば、家計所得も実質賃金もほとんど上がっていない現在、経済が大失速するリスクを孕んでいる。だが安倍は、増税をするかしないか、どんなに遅くても来年春には決定せねばならない。
「だから、竹下派は勝つ見込みの薄い石破茂の支持を表明したんだよ。来年春には統一地方選が、そして7月には参院選が控えている。
消費税増税の決定後であれば、自民党の苦戦は明白だ。安倍の政治家としての体力が、その時点でどの程度残っているか、こちらは見極めたいという思いがある」(参議院竹下派幹部)
自民党参議院・竹下派の〝陰のドン〟青木幹雄は、消費税増税と参院選との関係の恐ろしさを身に染みて知っている。
’89年4月の消費税導入時は、6月の竹下登総理(当時)退陣の後、7月の参院選で自民党は大敗。’97年4月の消費税5%への引き上げ時も、翌年7月の参院選で自民党は大敗し、橋本龍太郎総理(当時)は退陣――。
参院選大敗と総理退陣がセットで起きたのだ。この再来は見たくない。
「ただでさえ、モリ・カケ疑惑により、安倍一強には綻びが出ている。ここで消費税増税で、安倍と心中など、たまったものではない」(別の参議院議員)というわけだ。
さらに、消費税を段階的に引き上げることが決まった’12年の「三党合意」の後の悪夢は、当時の民主党議員にとっては生涯忘れられまい。
同年8月の法案成立後、12月に行われた総選挙で、野田佳彦総理(当時)は退陣し、自民党・安倍晋三に政権を渡した。
消費税増税と総理の座は引き替えになる――その歴史を熟知しているからこそ、安倍晋三はこれまで、「消費税増税延期」を、逆に選挙に利用して勝利を収めてきた。
’14年4月の8%への引き上げ後、11月に10%への引き上げ延期を表明し、解散総選挙で大勝。’16年6月には再度の引き上げ延期を表明し、参院選で大勝。いずれも、消費税をテコにした鮮やかな勝利だった。
とにかく消費税増税をしたくない安倍は、なりふり構わず増税延期の作戦をとってきたのだ。
新聞も創価学会もダンマリ
だが、もう同じことはさせないと考えているのが、財務省である。
「総理が再登板してから、5年7ヵ月の努力の甲斐が出てきた。いろいろあったが、完全に総理の外堀は埋めた。今や政府・自民党の幹部で、消費税引き上げに反対なのは、安倍総理と菅(義偉)官房長官ぐらいだ」
こう語るのは財務省の局長級幹部のひとりだ。
前述した’14年11月の引き上げ延期は、当時の財務省と官邸の「死闘」ともいえるものだった。
「このままでは財務省の思惑どおりに、消費税が10%に引き上げられてしまう。先手を打って、消費税増税先送りを争点にし、衆院選を戦う」
安倍は当時、周囲にこう語った。一方、財務省の香川俊介次官(当時)は、幅広い人脈と政治力で、消費税増税の環境作りを進めていた。安倍は香川の力を恐れて、国会を解散したのだ。
だが、4年たった今、安倍は同じ環境にはない。
その理由のひとつは、新聞とテレビだ。
「新聞を軽減税率の適用対象にしてもらうことで、新聞社は財務省の軍門に降り、今やどの新聞も消費税増税賛成の論陣を張っている。系列のテレビ局も新聞に逆らえないから、結果的に増税反対の声がメディアに出にくくなっているのです」(政治部デスク)
また、与党の一角・公明党も、本来なら増税反対といきそうなところだが、財務省の悪知恵は、ここも抑え込んでいる。
「公明党の支持母体の創価学会の主な収入源は、聖教新聞や公明新聞といった機関紙です。軽減税率は、そこに適用されるだけでなく、信者の懐を直撃する飲食料品も対象に加えることにした」(同)
今回の総裁選で、もし石破茂が「消費税増税阻止」を真っ向から焦点にしたならば、少しは面白くなったかもしれない。だが石破は、「軽減税率は反対だが、消費税増税は賛成」という体たらくだ。
メディアや公明党だけではなく、工作は経済界にまで行われている。
消費税引き上げに反対している元財務官僚で嘉悦大学教授の高橋洋一氏が言う。
「財務省は、まず消費税は社会保障費に回されるという理屈で攻めた。『消費税を上げなければ、保険料が上がるが、労使折半のために企業の負担も増えてしまう』と説得するわけです。
それだけでは経済界も納得しないので、消費税増税の代わりに法人税減税をバーターにしているのです」
麻生も敵だ
エコノミスト・菊池英博氏も、増税反対だ。
「消費税は、国民から税金を取り上げて、法人税を下げるという悪質な税金です。むしろ、法人税を30%に戻したうえ、企業には国内への設備投資と正規社員の増加による条件付き投資減税をすべきです」
だが財務省は、今、一気呵成に消費税増税に向けて攻めこんでいる。その姿勢が誰の目にも明らかになったのが、7月末の財務次官人事である。
「主計局長から昇格した岡本薫明次官は、昨年の段階で『消費税は、予定通りに絶対に上げても
らう』と財界人との懇談の場で語っている。消費税増税推進の本丸である主計局長の昇格は、『増税先送りは絶対に許さない』という財務省から安倍総理へのメッセージでもあります」(財務省幹部)
注目されていないが、同時期に行われた財務省の人事では、関連する明白な「左遷」があった。
「5年間にわたって首相秘書官を務めた中江元哉氏が、財務省関税局長に就任しました。普通なら、首相秘書官経験者は主税局長や主計局長になるものです。これが傍流ともいえる関税局長に『飛ばされた』理由は、長期間総理の近くにいながら、増税の説得に失敗したからです」(同)
一連の人事は、安倍の説得を押し切り、財務大臣・麻生太郎が最終的に決断した。この麻生自体も曲者である。
「戦後歴代在任1位の財務大臣となった麻生さんは、元来の親分肌で、今や見ているのは安倍総理ではなく、財務官僚たちです。
『加計問題は、安倍夫妻の問題だ』というのがいまだに口癖になっているくらいだから、スキャンダルでも総理を見捨てずに守った自分は、安倍総理に貸しがあると思っている。7月末の人事は、借りを返してもらったという感覚ですが、これも増税への牽制とみていい」(麻生派議員)
麻生も財務官僚たちに乗せられているのである。
では、安倍はどうしたらいいのか?2度もの増税延期をやってしまった以上、今さら3度目というのはなかなか難しいだろう。かといって、政権を投げ出すわけにはいかない。その点も、財務官僚は狡猾に忖度する。
昨年秋の総選挙で、安倍が突然「消費税増税分の、財源の使途変更」を争点にしたのを覚えているだろうか。安倍に知恵をつけたのは、一人の大物財務省OBだった。
古谷一之。主税局長や国税庁長官を経て、現在は内閣官房副長官補を務める。古谷は、安倍にこう語ったという。
「このままでは、総理は増税がいつまでたってもできません。財政再建路線は捨てて構わないから、消費税は一般受けする『教育無償化や子育て支援』に充てるとすればいい。それに経済対策の大盤振る舞いを足せば、必ず勝てます」
古谷は、現役財務官僚の代弁者だ。安倍は古谷が出した案に乗り、結果として選挙では大勝した。
「ここで財務省は、さらなる『餌』を安倍総理に与えました。財政健全化計画のプライマリーバランス黒字化目標を5年先送りにする案で、今年6月の『骨太の方針』にも盛り込まれました。
これで、安倍総理は任期中『財政再建』の責任を負わなくてすむことになった」(前出・政治部デスク)
財政再建の論理などはどうでもいい。財務省としては、消費税増税という既成事実さえつくってしまえばいいのだ。
だが、ジャーナリストの須田慎一郎氏は言う。
「増税ありきで考えていいのかと思います。金融緩和などアベノミクス政策によって物価を上げつつ、景気回復が見え、経済成長率も一定以上に押し上げられ、実質賃金も上がっていく……こうした将来の景気への備えができたと確信が持てるなら増税すべきですが、現在はその状態ではありません。
財務省は、2度延期したのだから三度目の正直ということで、これ以上の延期は『敗北』だと、なりふり構わない。経済政策や景気対策に関しては無関心なのです」
消費税解散はあるか
経済評論家の上念司氏も言う。
「財務省は、増税さえしてくれれば、安倍政権なんて用無しとしか思っていません。今は官邸が官僚を抑えているように見えますが、増税によって財務省が自己肥大化し、権限が強くなれば、安倍政権は追い込まれます」
もちろん、増税によって安倍の総理の座が危うくなるばかりではない。困るのは、われわれだ。
「来年の増税後は、’14年の8%への引き上げ時と同様に景気が落ち込むのは明白でしょう。個人消費が減少し、それに連動して株価が下がり、円安に向かいます。そこから回復するには、相当長い時間が必要となるでしょう」(前出・須田氏)
誰も幸せにならない「消費税増税」だが、もちろん安倍は伝家の宝刀を保持している。
「政権維持の道具として、『増税延期』を争点にした解散総選挙を、来年春までにちらつかせ続けるでしょう。三選した途端に、安倍の求心力は衰えますが、このカードだけを使うのです」(自民党幹部)
自民党の増税反対派議員・安藤裕は、再延期どころか「消費税引き下げ」を争点に選挙をやればいいとまで言いきる。
「総裁選後に『消費税を引き下げる』として解散総選挙になれば、必ず勝つし、景気も回復するでしょう。それくらい踏み込んで勝負を賭ければいいのではないか」
安倍政権には批判すべき部分も山ほどあるが、こと消費税増税に関しては、安倍の踏ん張りどころだ。狡猾な財務省との駆け引きに、三選確実の総理がどう闘うのか、総裁戦後が見物である。
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○東京に残る北条の城の傑作
東京都西部、八王子市の西であり関東平野と関東山地の境界部である高尾、その中にある独立峰的な急峻な地形をなす深沢山は、地元では今でも城山と呼ばれており、そこにあるのが八王子城です。その山頂部からは関東平野を一円見渡すことができ、それは
北条の支配領域をほぼ全域見渡すことも夢ではない
と思わせるような位置しているのです。
八王子城の歴史は非常に新しく、その時期は天正14年(1586)末と推定されています。一般的に北条の城は元々あった国衆の城をそのまま改修して使用していましたが、この時期に新規築城したのは軍事上の危機があったためです。いうまでもなく豊臣政権との軋轢から侵攻に備えて本格的な大城塞を築く必要がありました。天正12年、北条氏は秀吉の侵攻を意識し始めて、小田原城を始め、武蔵・相模・伊豆の諸城の修築を開始しました。年末から翌15年にかけては領国内の文字通りの国家総動員令を発し、小田原城の惣構を始めとして防備強化を固めていました。武蔵西部を統括する氏政の弟・氏照もこの時に小田原に詰めていましたので、八王子城の方は、重臣の狩野一庵に任せられていました。その主目的は甲斐方面への国境防備であり、特に西側については非常に強化されて構造となっていました。
しかし結果的に八王子城はそのポテンシャルを発揮せぬまま、その4年後に短い命を終わらせることになりました。天正18年の小田原征伐によって豊臣軍の侵攻を前にした北条氏首脳陣は小田原城に主力兵力を結集して敵を迎撃する方針をとりました。氏照も配下の精鋭部隊を率いて小田原城に在城することなり、八王子城は狩野一庵以下僅かな侍と動員された「国民兵」によって守備にあたることになりました。
小田原城が既に豊臣軍主力の厳重な包囲下にあった6月23日払暁、豊臣軍の北方方面軍(前田・上杉主力)はこの城に殺到しました。この力攻めは秀吉による厳命が背景にありました。小田原城の短期攻略が挫折し、豊臣方の戦略は長期戦に移行する状況に焦る秀吉は、旗下の諸将が投降勧告によって北条方の城を開城させるという「穏便」な方法に不満を募らせていました。そこで北条氏の中でも重鎮の氏照の居城をあえて攻撃目標として選択し、いわば見せしめとして力攻めするように指示していたのです。
結果として兵力量で圧倒する豊臣方の前に、八王子城はわずか1日で陥落。この時に籠城衆の妻女らが多数人質として軟禁されていましたが、彼女らは城兵の首級らとともに、小田原に送られて晒し者とされ、これが小田原城の北条方の士気を大きく挫くことになりました。まさに秀吉の「計算通り」と言った所でしょうか。しかし強襲によって攻め手の前田・上杉軍も少なからぬ損害を与えたのも事実で、
北条氏築城術の最終進化系の八王子城は、兵力不測・孤立無援の状況下でも敵に相応の出血を強要したのです。なお八王子城で奮戦して討死した中山家範の遺児は後に水戸徳川家の付家老となっています。
○東京都に残る傑作の城
JR中央本線高尾駅、東京から電車1本で行けるこの駅は「関東の駅百選」にも指定された寺社風の駅舎が特徴です。
ここから西東京バスで霊園前方面のバスに乗車、ものの10分ほどで
「八王子城跡」バス停に到着
元々はバス停はここから少し手前の「霊園前」が最寄のバス停ですが、休日限定でこの八王子城近くのここまでバスが走ってくれます。
根小屋地区
寺院や家臣屋敷跡の伝承を残す地区で八王子城の外郭部分でもありました。写真右手の建物はガイダンス施設でここで八王子城の歴史や展示物の見学可能。是非とも立ち寄るべき施設です。
八王子城登り口
ここから右手に進むと「要害地区」と呼ばれる山城部分
次には左手に進むと
「居館地区」と呼ばれる居城部分
2つのエリアで構成された八王子城の分かれ道となります。まずは山城部分に進みます。
辺り一面は静かなもので小川のせせらぎのみが聞こえてきます。意外と登りやすい道と思われるでしょう?でもこれ入口だけでその奥からは険しい登り道が続いているのです。
金子丸
山城の最初の関門となる曲輪跡でここを守っていた家臣の名前から由来しています。
恐らくですが物見・番所跡だったのではないのでしょうか。
この辺りに柵門が設置されていたと言われています。
20分ほどでいよいよ山城部分の中心地点に到着しました。
八王子神社の建物
主郭ですが意外とその面積部分は狭い
その代りに高い切岸と呼ばれる急斜面で囲まれており、更に腰曲輪で周囲を固めています。
小宮曲輪跡
重臣・狩野一庵が守っていた曲輪跡で三の丸とも呼ばれています。
松木曲輪跡
これは元の城跡の石垣でしょうか。
少し木に遮られていますが、関東平野一円を見渡すことができます。
さて山城部分の中心部分はここで終わりなのですが、実はまだ続きがあります。ここから先は大天守と呼ばれる曲輪跡があるのですが、
ここからが本格的な山登りとなります。
途中の道筋にあった井戸
器具まで取り付けられているということは近年まで使われていたのでしょう。
そしてここからは急斜面の道をアップダウンで上り下りすることになります。
「馬冷やし」と呼ばれる大堀切
ここからは延々斜面に残る石の間を縫うように登っていきます。
実は
れ、全部かつての八王子城の防御線として築かれた石塁の遺構なのです。
通称「大天守」と呼ばれる部分に到達しました。ここも周囲をこれまた石塁(の名残)で囲まれています。「大天守」という名称も無論後世の者で実際にはこの部分は八王子城の西方を防御する
西方堡塁群
のその中心部分である第三堡塁であったとされています。
ここから尾根筋に沿って延々と長大な石塁がまるで万里の長城のように建てられていたのです。
(西股総生氏『「東国の城」の進化と歴史』「八王子城」の項参照)
この険しい山奥にこれだけの長大な防御線を築き上げた北条の築城技術は本当に感嘆の想いです。
さてここから更に1㌔ほど進むと富士見台と呼ばれる物見台跡があってそこからの眺めを求めて、この八王子城の山は休日には多くのハイカーが訪れるのです。私は流石に装備も何もない状態なのでここで引き返すことにしました。
山道からの眺望
ここからなら相模平野、横浜、新宿副都心までを一望できます。
さてここからは一旦さきほどの登り口まで下りて行きます。次に求めるのは御主殿と呼ばれる居住エリアです。
さてここからの探索ですが、まず日中の探索をおススメします。八王子城は日本全国でもほとんど年中無休でガイドツアーを用意してくれているのです。年末年始あるいは特別な予定以外はほぼ5名のガイドの方が先程の管理棟で待機してくれており、30分~1時間半と希望者の要望に応じてガイドしてくれるのです。しかも大事なのは
ガイドさんの案内が無いと入れないエリアがある
ガイド時間: 9時~16時(受付は15時まで)
ガイド料 : 無料
ツアー時間: 30分~1時間半
となっています。流石に休日だと多くなるので少し待つことになるかもしれません。今回は9時丁度に戻ってくれたのでドンピシャでガイドの方にお願いすることができました。
まずはあしだ曲輪跡
いきなりですが、この辺りガイドさん抜きでは立ち入り禁止なのです。元は寺院が置かれ、現在でも私有地となっている為です。
周囲は土塁に囲まれ
そして石垣もありました。
ここから先は整備された大手道を進んでいきます。
かつてあった大手門跡
その上は尾根上の堀切と曲輪が延々と大手道を援護するかのように伸びていました。
さていよいよ曳橋に到着するのですが、何と橋の麓の石垣が一部崩落しているではありませんか!
以前訪問した時の写真を紹介しておきます。早く復旧されんことを願います。
曳橋は往時は攻められたときに橋を引き込める構造になっていました。
発掘調査の結果、復元整備された関東でも珍しい石垣
石積みで固めて「コ」の字形に折れ曲がりながら、御主殿内部に至る導線構成は、枡形虎口を極度に縦深化した形態です。
ところでこの大手道、何か既視感のようなものを感じてしまわないでしょうか?実はこの石垣の登城道、
を参考にした
と言われているのです。城主の氏照は織田信長との交渉を担当した関係で安土城に家臣を使者として送っており、その家臣経由からこの石垣の居城を築城したのではないか、と言われています。いずれにせよ北条が決して「井の中の蛙」どころか決して中央との情勢に暗くなかったことを示すと思わないでしょうか。
御主殿入口に復元された門
内部
御主殿跡は平成4~5年にかけて発掘調査がなされ、その結果からできる限り史実考証に基づいて復元整備が行われています。
ここはと言えるでしょう。
庭園跡
ちなみにこの石は発掘されたそれに形状をあわせて新たに設置されたもので、元の石材は地中に再び埋め込まれています。
主殿跡の建物
背後の山を借景にした枯山水の庭園と考えられ、接客の為の建物と推定されています。
非常に立派な建物があったようですが、城主の氏照はここに滞在した期間はそれほど無かったでしょう。元々この城は完成から落城まで4年余り。しかもこの間にも氏照は下野方面の栗橋城などに何度か赴いており、ここで落ち着く暇もなく多忙を極めていました。
そして大事なのはこの居館はあくまでも軍事施設の居館であり、単なる政庁・社交の場では無かったということです。特に北条兄弟の場合は一箇所の城にとどまることが少なく、彼らはいずれもその時々の状況に応じて複数の戦略拠点を使い分け、行動していました。
さてここからは再びガイド同伴でないと入れないエリアになります。主殿跡の外側は藪に覆われ、しかも「道」はあくまでも石ころだらけの実に危ない道になります。しかも前日雨が降ったせいか、一部足を滑らせてしまいました。
お目当てはこの藪の中に眠る石垣跡
何故この辺りはまるで手つかずのままになっているかというと実は先程の主殿跡は八王子市の所有地(市が買い取った)のですが、この山林エリアは林野庁の管轄地であり、発掘調査はおろか整備やメンテナンスさえされていないのです。
要するに「縦割り行政」の弊害ですね。
これらの貴重な石垣も果たしてこのまま野ざらしでしたままでいいのか・・・・と疑問なんですが、日本の組織というのは「何かあってから」でないと動かないものだからなぁ。
最後に「御主殿の滝」を見学。落城時、多くの女性がこの滝に身を投げ、この滝は一大心霊スポットとなっています。私はこの辺に関しては鈍感そのものなので余り気にしていないのですが、ガイドのおじさん曰く見学者の中には
「みえている人」もいるのだとか。遠慮したいものです。
ここ八王子城は山中城と並ぶ北条の城の最高傑作であると私は規定しており、東京を訪問する時には何度でも訪れても良いそう考えている名城です。何よりもここはガイドさんの解説が楽しいので、もし訪問の機会がある人にはおススメしたい。
○北条の重鎮・氏照
北条氏照は氏康の三男(長男は早世しているので実質次男)で、母は正室・瑞渓院です。要衝の頃より武蔵西部・現在の八王子市を本拠とする国衆・大石氏の婿養子として送り込まれてその家督を継ぎ、を本拠として武蔵西部攻略・統治にあたっておりました。永禄11年(1568)の甲相駿三国同盟崩壊に伴い、越後の上杉謙信との間に同盟が締結されると弟・氏邦と共に上杉方との交渉を担っていました。翌年に武田信玄が大挙して関東に襲来すると、彼の居城である滝山城も包囲し、危うく陥落寸前まで追い込まれます。武田軍はそのまま小田原へと向かった為に落城を免れますが、雪辱に燃える彼は撤退する武田軍を追撃します。この時に発生したのが「三増峠の合戦」でしたが、小田原の本隊の到着が遅れたために、武田軍に突破されて無念の戦術的敗北を喫してしまいます。『異本小田原記』には次のような逸話が残されています。
氏照は三増合戦の敗北から、武田氏討伐のために飯縄社に十年間の女人禁制を近い、これを知らない正室の大石氏は、氏照に疎まれたと誤解して、恨みつつ自殺した
これは史実ではなく、(正室が自殺した史実は無い)、氏照には男子が無く(娘が一人のみ)、兄氏政の息子を養子としていました。男子ができなかった事実が、このような逸話を生み出したと考えられ、氏照にとって三増合戦の敗戦がいかにおおきなものであったか、ということを示しています。
その後の氏照は主に下野・常陸方面軍司令官としての役割を担い、栗橋城(茨城県)や小山城(栃木県)を戦略拠点に領国拡大を努めます。特に特筆すべきは関宿城の攻略で亡父・氏康が「一国を取るに等しい」と言わしめした戦略要衝を手に入れたことで関東における北条の覇権は不動のものとなりました。氏照は天正2年から「陸奥守」を称するようになります。これは小田原の本家である「相模守」に次ぐ地位のものでまさにNo.2という地位に相応しい物であったと言えるでしょう。
そして氏照は滝山城から新たな城として八王子城の築城に取り掛かります。織田との交渉役を務めた彼にとって、その使者が見聞した安土城の威容がこの八王子の城に影響を与えたと言われています。小田原戦役の最中、氏照は小田原城に参陣して籠城戦を担いました。籠城は100日に及びましたが、当主・氏直が城を出て投降したことがきっかけに遂に小田原城は開城します。秀吉は氏直を助命し、一方で氏政・氏照兄弟と大道寺政繁及び松田憲秀に切腹を命じました。一般的には彼は兄・氏政とともに強硬論を主導して家を滅亡に追い込んだ元凶扱いされていますが、小田原の陣における氏照の動向は実際には良質史料においては具体的な動向は不明で(一説には病により活動できなかったともいわれています)、氏照の人物像は、自害させられたことによって遡及して作為されたのではないでしょうか。
≪参考文献≫
黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社 2015
西股総生『東国武将たちの戦国史』 河出書房新社 2015
峰岸純夫・斎藤慎一編『関東の名城を歩く 南関東編』 吉川弘文館 2011
西股総生『「東国の城」の進化と歴史』 学研 2016
○アクセス
JR中央本線高尾駅から西東京バス霊園方面行きバスで10分「霊園前」下車徒歩10分で登り口(休日限定で「八王子城跡」行バス路線あり「八王子城跡」バス停から徒歩5分で登り口 そこから徒歩25分で
本丸、そこから徒歩15分で「大天守」跡
・八王子城ガイダンス施設
開館時間 9:00~17:00
休館日 年末年始(12月29日から1月3日)
入館料 無料
ガイダンス施設や登山口にパンフレット有
「八王子城に狼煙が一本・・・」