空襲の口コミ
私は新幹線のホームを降りて立っていた。
私の故郷は伊豆である。
10年ぶりの弟は変わっていないけど
おっさんになっていた。
「時々熱があるって言っていたけど大丈夫?」
大丈夫。良かった。
弟と、懐かしいウナギ屋さんに行き、おごってもらう。
そして墓参りに行く。
父の葬儀以来だ。
父は今でも少し嫌い。
母は今なら、がん友みたいにお話しできたかな。
お母さん、生んでくれてありがとう。
弟と中学校や、子どもの頃に遊んだ公園、
今や古くなってしまった、アパートを見に行く。
弟が予約してくれた旅館もよかった。
子供の頃は自分のことで精いっぱいだったけど
弟も苦労したんだろうか。
懐かしい再会を果たし、翌日は患者会の旅行の
宿泊施設まで送ってくれた。
患者会の旅行も楽しかった。
少しだるくて、熱っぽいほかは…。
温泉もお料理も、みんなとの会話も、来てよかった。
翌日、私は別行動で、祖母の墓参りへ。
富士山が見え、駿河湾を見下ろす美しい景色。
おばあちゃん子だった私。
「乳がんになったけど、無事に8年が過ぎますよ。
これからも見守ってね、おばあちゃん。」
祖母は、幼い頃に養子に出された。
すごくお金のある人と結婚し、満州に渡ったそうだ。
終戦前に日本に戻り、空襲で焼け出された。
山の中で小屋を建て、子育てをした。
脳出血で半麻痺になり、不自由だった晩年。
祖母は私のことばかり、心配していた。
歳を重ね、父や母や祖母や、周りの大人たちが
その時代を、様々な気持ちで生きていたことが
少しわかった気がする。
次はこの富士山を見せに、娘たちと来よう。
家にかえってLINEを見ると、弟からのメッセージ。
「楽しかったね。これからは時々会いましょう。」
大切な弟、ありがとう。
生きているって、幸せだなぁ。
めくるめく空襲の世界へようこそ
大阪には他にはない独特の遊里がある。
それは「新地」と呼ばれるもので、大阪府内には現在5カ所が存在している。
その5カ所というのが、飛田・松島・今里・滝井・信太山。
これらに共通しているのが、いずれも戦前から戦後にかけて存在していた遊廓や赤線から脈々と続いている点。
昭和33年の売春防止法施行に伴い、全国の赤線が廃止され、表向き公娼制度は廃止された。
しかし、その後も「旅館」やら「料亭」といった名目で営業を続け、平成の世になった現在も現役であり続けている。
中でも代表格と云われているのが飛田新地だろう。
最寄り駅は地下鉄御堂筋線「動物園前駅」、通天閣がある新世界の最寄り駅でもある。
駅を降り立つと、アーケード商店街「動物園前一番街」が見える。
このアーケード街を抜けた先が件の「飛田新地」。
しかし、この辺りは「釜ヶ崎」(或いは「あいりん地区」)と呼ばれる日雇い労働者の密集地でもある。
過去に何度も暴動事件が起きた場所でもあり、今でも夜間に歩くのは危険極まりない。
東京にもあの吉原に近くに「山谷」と呼ばれる同様の場所があるのだが、地理関係は共通している。
アーケードから外れた場所にはそんな日雇い労働者が住み着いているアパートやら旅館やらが多く集まる。
この「三洋荘」、全体が綺麗な豆タイル装飾で如何にも「転業ですよ」と云わんばかりである。
因みに、この辺りはまだ目的地ゾーンには入っていない。
しかし、かつては新地の周辺に青線などが広がっていたとされ、恐らくはその残滓だろう。
少し奥まった場所にあるこの「大番」もそうだろう。
色街はこの辺りまで広がっていたと思われる。
並びの「岬荘」も控えめながら豆タイルが施されている。
『全国女性街ガイド』には「飛田」とともに「釜ヶ崎」についての記述が出ている。
それによると、
「オカマの別称を釜ヶ崎というほど大阪の男娼は有名であり、上野の比ではない」
というのだ。
昭和30年当時、「十八才から四十三才までが約三十名屯している」といわれている。
赤線に青線、更に男娼と飛田とその周辺の色街はバラエティ豊富である。
アーケード街を進んでいくと、大阪で知らない人はいない激安スーパー「玉出」がある。
この派手派手しい看板、いやでも目に飛び込出来る。
この「玉出」、大阪府内にあちこち支店があるのだが、そのほとんどが五新地の至近距離にある。
創業者が新地関係と関係が深いのだろう。
アーケードの脇を見ると、もう独特の雰囲気の光景を目にすることができる。
これが飛田新地、今でも多くの「料亭」が看板を出して、戦前から続く色街の命脈を保っている。
アーケードを進んで脇に入ったところに、飛田大門がある。
飛田新地の西側にあたる。
新地が開業した当時はここしか出入りできなかったそうだが、やがて東門、北門、南門と増えていったそうだ。
大門の柱が両側に残っているが、モダンなファサードで恐らく戦前からのものだろう。
高さは4.5メートル、意外と高い。
そして、脇には交番、吉原と同じパターンだ。
大門に交番があるのは、遊女の逃亡を防ぐ目的もあった。
ここ飛田に限らず、吉原など遊廓では遊女の逃亡を防ぐために「廓(くるわ)」と呼ばれる水路やら壁やらを周囲に張り巡らせていた。
「遊廓」に「廓(くるわ)」という字が入っているのはそういう意味からだ。
飛田の場合は、「嘆きの壁」と呼ばれている高さ4~5メートルほどの壁が周囲を囲っていた。
写真は天王寺側に残っている「嘆きの壁」だ。
向こう側は天王寺の再開発エリアで高層マンションなどが見える。
嘆きの壁に上って、廓の中を展望してみる。
いやぁ、壮観かな壮観かな……
では、サクッと廓内を探索するとしよう。
飛田は現役の色街で、営業時間の日中から夜間にかけてはカメラ持ってうろつくのは厳禁。
歩くなら営業時間外の早朝がいいだろう。
大門の近くにパステルカラーの豆タイルで装飾されたアパート。
恐らく赤線当時のカフェーだったものだろう。
飛田新地は大正5年の暮れに貸座敷187軒、娼妓2300名、芸妓15名で開業した。
道頓堀にあった「難波新地」が火事で焼失し、その業者を移転させる形だった。
昭和5年『全国遊郭案内』によれば、「貸座敷は二百廿軒あつて、娼妓は二千七百人」 というから、開業当時から規模が大きくなっている。
戦後はやはり赤線に移行し、「百八十七軒に千六百に十八名の大所帯」 (全国女性街ガイド)という規模を誇っていた。
空襲で多くの市街地が焼失する中、この飛田は米軍の標的から逸れたかのように戦災から免れている。
それ故、戦前に建てられた妓楼建築が所々に残り、しかも現役の「料亭」としてちゃんと使われている。
中でも有名なのはこの「鯛よし百番」だろう。
新地内のほとんどが名目上の「料亭」なのに対し、こちらはちゃんとした料亭なのだ。
大正7年に建てられたこの料亭は、何と国の登録有形文化財に指定されている。
かつて飛田では大門の近くから「一番」「二番」……と呼ばれた料亭があり、奥に行くにつれて番号が大きくなり、その分格式も高くなっていた。
その最上級がこの「百番」で、新地の奥まった場所にある。
『全国遊郭案内』によれば、昭和初期の飛田新地は
「大門を入ると中央の大通りを中心に、縦横街は幾筋と無く整然と別れて、和洋折衷の貸座敷がずらりと並んで居る」
という感じだった。
こうした洋館風の妓楼もしっかりと残っている。
見た目、豪華客船を想起させる外観だ。
いまはリフォームされて綺麗な外観になっているが、木村聡氏の『赤線跡を歩く』などでも出てくるので、赤線マニアの間では有名だろう。
最後に飛田新地の歴史を語ってくれる生き証人がある場所へ。
先程の「鯛よし百番」の向かいにポツンと建っている石碑がそうだ。
案内
には「飛田(遊郭)料理組合の歴史」とともに「慰霊碑・慈母観音(無縁仏)の由来について」とある。
古今東西、遊女たちは病気でも満足に治療させてもらうことなく、亡くなるや近くの寺院などに投げ捨てられる運命であることが多い。
外からも蔑まれた存在だった遊女、亡くなっても肉親に引きとられるなんてこともなかったが、遺族の側も世間体を気にして引き取りに行くなんてこともできなかったのだろう。
そんな霊を慰めるために立てられたのがこの慰霊塔であり、慈母観音だった。
慰霊塔には「飛田遊廓発祥の地」と刻まれている。
あまり目立たない場所なので見逃しがちだが、飛田の歴史を知るうえでは足を運んでほしい。
大阪万博の開催が決まり、この飛田に代表される”新地”という大阪独特の遊里。
果たしてこの先も脈々と続いていくのだろうか、推移が気になるところだ。
(訪問 2016年7月)