本丸はやさしい

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あなたの本丸ライフをサポートします!

今日はちょっと軽めの話題を。

昨日はヨガ友さんたちとともに、
都心のオフィス街の中心、日比谷公園と
皇居東御苑でヨガの練習会をしてきました。

朝7時集合ね!という時間設定に
「マジか!」と思ったけれど、
行って良かった~!(^^)

結果的に、ものすごく充実した
一日を過ごさせていただき、
今後も定期的にやろう!という
流れになりました。

ご一緒してくださったみなさん、
ありがとうございました!

皇居は9時が開門なので、それまで
日比谷公園の心字池の辺りで呼吸法を
やりました。

ウッジャーイー(征服呼吸法)、
カパーラバーティ・クリヤー(頭蓋光明浄化法)、
スカ・プールヴァカ(安楽呼吸法)
各10分。

ナーディー・ショーダナ(気道浄化呼吸法)
5分。

ウッジャーイー以外は家で毎日練習している
呼吸法だけれど、やってもせいぜい1セットなので
5分くらい。

一つの呼吸法をこんなに長くやることは
まずありませんでした。

最初は、こんなに長くできるかな~?
と思いましたが、やってみると案外集中して
あっという間。

しかも、長くやらないとわからない気づき
とかもあって、こんなところに余分な力が
入ってたんだ!とか、

ゆっくり、焦らず深くやるから
浄化の具合も段違い。

一つの呼吸法が終わると、まずみんなの目の
輝きがキラキラしてとても美しい!

どんどん背後のオーラもクリアになって、
視界がはっきりしてくるんですね。

ほんと、呼吸法って素晴らしい!

本当にちゃんと呼吸法やったら、
病気になんかならないんだろうな、
と真面目に思います。

何だかんだと感想や気づきをシェアしながら
やっていたら、あっという間に9時を回り、
小腹もすいてきたので近くのカフェで
軽くモーニング。

そこから皇居東御苑へ徒歩で移動。

皇居の中は物凄く広いので、案外歩くんですよね。
大手門から手荷物検査を受けて
本丸跡の芝生までてくてく歩きます。

皇居って半端ないパワースポット
だと思うのですが、門をくぐった辺りから、
もうエネルギーが全然違うんですよね。

そして本丸跡の芝生に到達。

もう気が素晴らしすぎて、
みんなシートを持ってきたのにさっさと
靴を脱いで、裸足で芝生の上に寝転んでました。

ちなみにこの芝生、入っても大丈夫なんですが、
あまりにきれいすぎてこの日は誰も
入ってませんでした。

確か入っていいはず、と思っても心配だったので、
すぐ前にある売店の人に聞いたら大丈夫
とのこと。

私たちが芝生に入っていったら、後から
外国人の人とかがぼちぼち入ってきましたね。

それから、この日のメインである
スーリヤナマスカーラ(太陽礼拝)を
マントラ付きで練習。

ヨガでは有名なこの連続したアーサナの
プログラム。実は私はこれがなぜかキライで、
この日まで1回も練習していませんでした。
(^^;

ガネーシャ・ギリ先生によると、
太陽礼拝はハタヨガ由来ではなく、ヴェーダ由来
だそうで、その辺に何か感じてるのかも?

まぁよくわからないけれど、
太陽のパワーが今の私には必要、と思って
みんなで練習することになったのでした。

私は全く練習していないので、ヨガ友さんの
誘導に従って何度かトライ。

まぁ、全然できてないけれどそれなりに。(^^;

それからいくつかのアーサナをやって、
みんなで耳や手を揉み合いっこして
グルーミング。

至福の時間でありました。笑

結局、この芝生の上に2時間以上いたのかな?

こういう気の良いところでエネルギーチャージ
するのも、ものすごく心身の調整になるな~
とひしひし感じた時間でした。

その後、水曜日だし、レディースデーで
映画が安く見られるから、日比谷で映画を観よう!
ということになり、

「」を観てきました。
ゾンビ映画みたいなんだけれど、結構笑えました。

前半こらえてみていくと、
後半でそういうことだったのね~!
って感じで、笑いになります。

まぁ、興味のある方はどうぞ。

そんなこんなで、
今日は気の良い場所で朝ヨガのすすめ
でした。

【イベント情報】*********

●満月の瞑想会
9月25日(月)19:00~22:00(18:30開場)

●感情解放ワークショップ 
2018年
9月1日(土)、5日(水)満員御礼!、15日(土)、20日(木)
10月6日(土)、11日(木)、20日(土)、31日(水)
基礎 10:00~12:00 アドバンス 13:30~17:00

●特別講座⑮「恐れなく愛し、愛されるためのワーク」
9月8日(土)、17日(祝月)、27日(木)
各回ともに10:00~16:00

●特別講座⑯「内容未定」
10月8日(祝月)、10月17日(水)、10月27日(土)
各回ともに10:00~16:00

誰が本丸の責任を取るのか

☆2018年9月「いのち」の講座☆

第一回 9月30日(日)

  9月は1回の開催となります。

  お好きな回、一回から参加できます。

☆時間☆ 13:00~17:30
☆定員☆ 3名様
☆講座料☆12,000円
       
※できれば録音できる機械をお持ちください。
スマホならアプリをダウンロードすれば録音できます

←各講座のご説明へ飛べます

☆申し込み方法☆

メールアドレス

または、

ショートメール(070-6560-3962)

へお願いいたします。

※2017年11月からメールアドレスが使えるようになり、

メールかショートメールで申し込みをして頂きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

場所:〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目14-16
電話:070-6560-3962

行き方: JR・東武東上線 川越駅下車
1番バス(神明町車庫行き)
※たまに札の辻(ふだのつじ)に止まらない
バスもあるようなので、乗る時に確認してください

2番バス(八幡団地行き)
約15分札の辻下車 下車すぐにある札の辻交差点を右折
本丸御殿の方向へ20m 左側

西武新宿線 本川越駅下車
5番バス乗り場 神明町車庫行き・八幡団地行き 約10分札の辻下車
下車すぐにある札の辻交差点を右折
本丸御殿の方向へ20m 左側

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「家康の遺言」

幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、

「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。

南禅寺金地院崇伝の日記である本光国師日記には
「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。

家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。

元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られた。

日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。

ただし、遺言の「勧請」とは、分身や分霊を他の地に移して祀ることで、下野国日光に遺骸を遷すと言うことではありません。なので家康の遺命に従えば「家康の遺骸は久能山にそのまま」ということになります。

「東照宮を巡る聖なる三本のライン」

1本目(不死の道)
御前崎から久能山東照宮を線で結んだ延長上には富士山、更に延長上に群馬県の世良田東照宮、更に延長しますと日光東照宮にいたります。

2本目(太陽の道)
久能山東照宮から真西には駿府城、更に延長しますと鳳来山東照宮、更に延長上には、家康公が生まれた岡崎城、更に延長しますと京都に至ります。

3本目(北極星の道)
日光東照宮の真南には江戸城、南面に立つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、星々はこれを巡ります。江戸城・日光東照宮・北極星を結ぶ南北線を中心に、この世の総てが運行するのです。

◉東照宮を巡る聖なる三本のライン1本目(不死の道)

久能山は推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立。多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られた。

久能山東照宮の配置をみると奥社は南南西を向いており、この軸線を北北東へ延ばすと富士山山頂を通過し日光東照宮へ達し、また久能山東照宮の日光へいたる拝殿と本殿を結ぶ軸線上には鳳来山、岡崎にある西向きに建てられた奥社宝塔が位置している。つまり、久能山と岡崎を結ぶ「太陽の道」と江戸と日光を結び北極星にいたる「北辰の道」は久能山の社殿は位置によって見事に連結されていた。

久能山東照宮を拝礼することは、家康が「不死山」として崇拝した「富士山」を拝礼することであり、日光東照宮を拝礼することになる。

【富士山】
家康はなぜ?この地に執着していたのか
それは富士山が見え、「富士」は「不死身」に通じるとされていたからだという。豊臣秀吉も人生最後の地として京都伏見を選んだ「伏見」は「不死身」に通じるからだと言う。家康に関する遺構は、すべて富士山が見える場所に造られている。(日光以外)家康の生涯は富士山を眺め続けた一生であったという説がある。

【静岡浅間神社】
今川家の人質であった徳川家康公(竹千代)は、今川義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行いました。天正9年(1581)家康公は武田家攻略にあたり戦勝を祈願し、平治の後に必ず再建すべく祈誓を為して社殿を焼き払い、当社背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼしました。天正14年(1586)にはその誓いを果たすべく東海各国に勧進を行い、慶長年間社殿が造営されるに至りました。

慶長5年(1600)、天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」で、徳川家康公率いる
東軍と石田光成率いる西軍が激突しました。その戦いに勝利した徳川家康公は、その御礼として本殿・拝殿・楼門をはじめとする約30棟を造営しました。安永8年(1779)、徳川幕府が富士山八合目以上を当社の境内地として正式に認めています。

【世良田東照宮】
世良田東照宮は、群馬県太田市世良田町に鎮座しています。世良田の地が徳川氏発祥の地と云われている由縁から、寛永21年(1644)に創建されました。三代将軍家光公による日光東照宮の大造替時、社殿が移築。その社殿は日光東照宮創建時に二代将軍秀忠公によって建てられた奥社(拝殿・唐門・御廟)のことを指しています。数ある東照宮の中でも世良田に移築されたことは、この地が徳川氏発祥の地として重要視されていたことを物語っています。
『鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の義重が上野国新田荘(現群馬県)を治めるようになり、新田義重と名乗ります。義重の死後、その領地の内、徳川郷・世良田郷・他4郷を義重の子である義季が受け継ぎ、徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。義季より9代目の親氏は足利氏の討伐により先祖の地を追われ、諸国を流浪または転戦の後、松平信重の娘を娶った縁により松平郷(現在の愛知県)に土着、松平親氏と名乗ります。その松平親氏から更に9代目に徳川家康公が生まれます。家康公は25歳の時、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を称していることを知り、自らの出自にあやかり松平姓から徳川姓を名乗るようになりました。』

◉東照宮を巡る聖なる三本のライン2本目(太陽の道)
【駿府城(すんぷじょう)】
今川氏全盛期9代義元の時代天文18年(1549)に、徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する「臨済寺」で太原雪斎の教育を受けました。

駿河国を領国の一つとした徳川家康は、天正13年から居城として駿府城の築城を始める。
慶長10年将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました
元和2年(1616) 徳川家康死去(75才)。久能山東照宮に埋葬される。

【鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)】
鳳来山(ほうらいさん)は、家康の母が子授けの祈願をしたところで、生まれたところと死んで埋葬されたところを東西のラインで結ぶことによって、太陽が東から昇り西に沈み、また東から昇るという輪廻再生を願ってのことだという。
『東照社縁起』
家康の父母である松平広忠と正室於大の方(伝通院)は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したという。
鳳来寺の伝説
家康の出生は壬寅年寅月寅の日にあたる天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされるが、鳳来寺では家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する十二神将の中、寅神でもある真達羅大将の神像が忽然と姿を消し、家康が薨ずると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は真達羅大将の化身であったと伝えられている。

【岡崎城(おかざきじょう)】
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生[5]。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)[5]。幼名は竹千代(たけちよ)天文16年(1547年)8月2日[6]、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。

【大樹寺】
徳川氏(松平氏)の菩提寺。応仁元年(1467年)、安城松平家当主の松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築いた。しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(せいよぐてい、のちに知恩院23世)に念仏をさせて、抑えた。
寺の言い伝えによれば、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ。しかしついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという。
歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。

南禅寺の塔頭の1つで、 徳川家康の信任が篤く、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移された。僧録司が置かれ一塔頭寺院に留まらず江戸時代を通じて五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされた。家康の遺言による3つの東照宮のうちの一つがあり幕府による増改築が度々される。東照宮には、徳川家康の遺言で建てられ家康の遺髪と念持仏を祀っている。鶴亀の庭

南禅寺中金地院の北側に浄土宗の総本山「知恩院」があります。知恩院は、鎌倉時代に法然上人が住まいし、念仏の教えを説いたところです。徳川家康は、法然上人の熱烈な崇拝者と自称し知恩院を保護し、慶長8年(1603)知恩院を母君である於大の 方(伝通院)の永代菩提寺に定めました。徳川氏は家康、秀忠、家光と三代にわたって、知恩院を新しく建造し、今に残る知恩院のほとんど全ての建物はその時建てられたもの。

・二条城
1603年(慶長8)徳川家康が造営、3代家光が増築を行い1626年(寛永3)に現在の規模になる。東西約500メートル、南北約400メートルに塁を築き堀をめぐらす。1867年(慶応3)15代慶喜が大政奉還の意志を表明した。


◉東照宮を巡る聖なる三本のライン3本目(北極星の道)
【江戸城(えどじょう)】
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城で、徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。

江戸城は7つの台地に囲まれる土地、7つのそれぞれの頂上の延長戦の交わる位置にあたります。陰陽道ではこのような地形を「交差明堂形」と呼び、その中心は地の気がきわめて高く、文明が栄えると言われている。
また風水学においても、この地形が仙人の手のひらに似ていることから「仙掌格」と呼び大吉としており、さらに気を強めるよために中心に玉を埋めていたと言う。
中国の長安の都や古代ローマ都市も7つの丘に囲まれている。

【日光東照宮】
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。江戸城内の紅葉山東照宮も北向きに建てられ、拝礼することは日光東照宮を拝礼することになり、北極星を拝礼することになる。
北極星は宇宙の最高の神様、すべてを支配している星と考えられ、徳川家康は‘北極星’となった。

ニコニコ私感です
でも書きました。

【家康は秦氏か?】
家康が眠る静岡の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、もともと鉄舟寺(てっしゅうじ)の境内にあり、これを開いたのが秦久能忠仁(はたのひさよしただひと)といい、彼は秦河勝の息子だった。☞家康は自らが秦氏であるがゆえに、この地に埋葬するように遺言したという説がある。

▶駿河国の総社は、静岡浅間神社です。
静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われています。式内社二社(神部神社・大歳御祖神社)、駿河国総社(神部神社)。三社合わせて旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

◉神部神社 (かんべじんじゃ)
祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと) – 駿河国開拓の祖神
崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。

◉浅間神社 (あさまじんじゃ)
祭神:木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)
全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。

◉大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと) – 倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命を指す
応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神でした。古くは「奈古屋神社」と称され、延喜式内小社で祈年の国幣に預った。

この三社が鎮座する賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきたそうです。
6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。
また、秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院で、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。

徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬したといいます。
1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行っており、1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、「無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建する」との誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造したと伝わっています。
以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになったそうです。

▶さて、秦久能忠仁は秦河勝の息子だといいます。秦 河勝は、聖徳太子の側近として活躍し、京都太秦を本拠地としていました。 は、603年聖徳太子より仏像を譲り受け、推古30(622)年・太子の死後にその供養のため創建と伝わります。
この広隆寺に毎年10月12日の夜、摩多羅神を主神とするというお祭りがある。その祭りは、奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。

▶また、河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の
観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称しました。禅竹は、面には目や耳や鼻の7つの穴があり、それは北斗七星を示しているという。

▶河勝は、聖徳太子が世を去ったあと、蘇我氏の迫害をさけ、兵庫県の瀬戸内海に面した坂越(さこし)という地にたどり着き、80余年の一生を終えたと言われている。

服部幸雄によると
芸能の神の信仰や歌舞伎について優れた研究成果を残した服部幸雄は、「後戸の神」「宿神論」といった芸能神信仰の一連の研究論文において、この摩多羅神が申楽の始祖神としての秦河勝=大酒明神(大避明神)との繋がり、「後戸の神」として猿楽法師たちの芸能の守護神であって「宿神」と同じ神であり、翁神・翁面として能楽の家系によって厳重に拝持されてきたことを実証した。


摩多羅神とは、主に天台宗寺院の念仏道場=常行堂の一角に祀られた霊異いちじるしい秘神。
念仏守護の護法神で、慈覚大師(円仁)が唐より帰朝の際、船中に影向したとの所伝から、新羅明神や赤山明神と同じく「異神」と考えられる。常行堂はその荘厳法や儀礼のすべてが秘事とされ、摩多羅神の真容はタブーとして明かされていない。

本貫地は比叡山延暦寺で、中世に慈覚大師の事跡と常行堂の様式ともども日光山・毛越寺・多武峰妙楽寺、そして清水寺・鰐淵寺など各地の有力な天台寺院に伝わった。

慈覚大師(円仁)は、下野国(栃木県)出身で幼少より日光の霊峰を仰いで育ち、やがて日光へ登山して金堂を創建し、常行堂、法華堂を建立して国家鎮護の道場として栄えたと言う。このとき建立した金堂が、いまの日光山総本堂の三仏堂に相当する。
天海出身寺である龍興寺や、天海が住職だった川越喜多院の前身である無量寿寺は、慈覚大師(円仁)が興したものだった。

▶【不動の北辰(北極星)になった徳川家康と北斗七星】

比叡神を山王と称していたことから、「日吉山王社」、「山王権現」と呼ばれ、内には東西本宮を中心にして数多くの摂社・末社が鎮座し、これを各祭神の格式によって「上」「中」「下」の3階層に区分し、それぞれを七社とし、「山王二十一社」と称してきました。これは、「七」という数が、天台宗で”北斗七星”として崇められていたことによるものです。
山王七社が揃って史料にあらわれるのは、1140年頃に著した「山王事」の記述で「七社権現」として七社の名が現れ、「山王曼荼羅」と呼ばれる天台宗の神道論の根本天理「山王一実神道」を図式化したものに、山王七社の神影像と三つの僧形の権現が描かれており、つまり神と仏の一致である神仏習合から天台仏教に神道の北斗七星が取り入れられたと言う。

北斗七星の「七」という数は、古来東西を問わず聖なる数字として知られています。神道や仏教に影響を与えた陰陽道に置いては、「七」は鎮魂や浄化の数字として広く用いられました。また、北斗七星は、北極星の周囲を巡るので、それを守る役割があると考えられてきました。
北極星は、古来より帝王を指し、「七」という聖数によって魔物を封じるとともに帝王を守るといた意味がありました。

家康が北極星にたとえられ、宇宙全体の神として江戸城の真北に位置する日光に祀られました。日光は、開山当時より北極星との関係が考えられ、日光の「星の宮、本宮、東照宮本社、開山堂、二荒山神社、慈眼堂、犬猷院」を結ぶと北斗七星型の配置となる。

徳川家康につかえていた江戸時代の僧・慈眼大師 天海は、家康の歿後、山王神道説をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主唱しました。

叡山延暦寺で生まれた神道の流派「山王一実神道」の提唱者であった天海僧正では、東照大権現、山王権現、摩多羅神は、三体一組である。東照大権現を単一の神として祀るのではなくて、東照三所大権現として、つまり、三神セットとして祀った。
山王権現も摩多羅神も北斗七星に関わる神と言われる。

東照大権現の本地仏は薬師如来、山王権現は釈迦如来、摩多羅神は阿弥陀仏というのが、それぞれの本地仏である。
日光東照宮では、これら三柱の神は東照三所権現として祀られる。
東照大権現の「御本社」、山王権現の「山王」、「魔多羅神」の三つの御輿が、久能山から日光山へと遷座したことが文献的にも記録されている。

日光・輪王寺には、江戸時代に作られた摩多羅神二童子図が所蔵されている。
これに描かれた摩多羅神は、和風の狩衣姿に唐製の烏帽子を被り、不気味な笑みを浮かべながら鼓を叩く翁の姿をしている。頭上の雲紋には、北斗七星が配置され、武曲星の輔星 一字金輪が添えられている。翁の前には、風折烏帽子【かざおりえぼし】を被り、右手に、左手に茗荷をもって舞い踊るふたりの童子が描かれている。
この二童子は、右が爾子多【にした】、左が丁令多【ていれいた】である。

「玄旨帰命壇」の秘儀に、「本尊ハ俗形ニシテ、鼓ヲ持シ玉ヘリ、二童子ハ歌舞ノ形ナリ」とあるように、摩多羅神の図像は、摩多羅神が太鼓を持ち、二童子は笹の葉の上にのって小鼓を持ち、十二枚の笏を周囲に配して、恍惚として舞を舞う姿に描かれている。
こういった摩多羅神像は関東の天台系寺院に伝承されている。

摩多羅神の上辺には北斗七星が描かれている。
摩多羅神は北極星の北辰信仰や、北斗七星の北斗信仰等、星辰信仰としての妙見信仰との関わりが深い。

(
王寺摩多羅神二童子図)

▶生まれ変わり、再生
「東照宮を巡る聖なる三本のライン」の2本目は、「死と再生を繰り返す太陽の道」ともいいます。
「久能山東照宮」から真西には家康が亡くなった「駿府城」から、家康の父母が子授け祈願をした「鳳来山東照宮」家康公が生まれた「岡崎城」へと続きます。

久能山が埋葬の地として選ばれたのは、太陽の生まれる方向とし、ここが神として再生される場所であったからで、なおかつ、古代からの霊場、要害、景勝の地であったからという。

摩多羅神の秘儀 も「生まれ変わり」や「子孫繁栄」といった意味があった。
「二童子は歌を歌う。左の童子の歌は『シシリシニ・シシリシ』と歌う。
シシは、男根の隠語であり、ソソは今日でも京都弁では、女淫のことをオソソと言う。


本丸 関連ツイート

新イベントって言ってるけど、新刀剣男士と言ってない時点で、この謎の存在は味方じゃないのかな?
新しい刀としても本丸には加入しない。乱舞システムも始まり、何か新しい異変か。時の政府も怖いな。
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