現物の人気商品をたくさん集めてみました

現物の人気商品をたくさん集めてみました

[広告] 楽天市場

  • 【DE SILVA】SIENA9cm耐熱スフレ 12個入【耐熱食器】【直火】【ココット】【食器】【オーブンウェア】【実店舗に現物あります】【5000円税抜以上お買い上げで送料無料】
  • 【期間限定】キャノン用 トナーカートリッジ524II/CRG-524II/CRG524II カートリッジ524の大容量 LBP6700/LBP6710i/MF511dw 対応 リサイクルトナーカートリッジ 【現物再生品】 ※使用済みカートリッジが先に必要になります
  • 【現物再生品】【リサイクルトナー】 TK-5141Y イエロー トナーカートリッジ ※空カートリッジ を先に回収
  • 【サンゴ現物2】マメスナギンチャク!15時までのご注文で当日発送
  • 【カートリッジを先に回収】imagio MP トナーキット イエロー C1800 (600104) (イマジオ) 現物再生 リサイクルトナー【送料無料】【smtb-td】【 お買い物マラソン 】【*】
  • ES15ICM94(マゼンダ)リサイクルインク この商品は現物再生商品です。【ご注文2個以上回収・納品送料無料】

現物 きれいなお姉さんは好きですか

さん(@kirari.handmade.7)がシェアした投稿 –

現物を特価で買うならやっぱり通販、ショップ店長・バイヤーのおすすめ品満載

7/15に九州 福岡市に来られる
ラーコムさんの
前回の内容!
面白いなあ…
7/15楽しみだなぁ〜
以下
主催者の記事のコピーです。
🌟ラムーコ氏お話会🌟
      九州シリーズ
「循環する 身体・空間・ことば を追って」
記念すべき第1回はシリーズ全体のエッセンスを交えながら「次元変換装置 仙尾骨の秘」をテーマに奥底に眠る何かを揺さぶられるような貴重なお話しをして頂き、参加者の皆さんから次回を催促される事態となり、嬉しさと感謝で一杯です。ラムーコ氏は私の好きな、目指す姿「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を体現していらっしゃる方です!
次回もとても楽しみです🌟
        第2回
「多面真体・多面真体ワークショップ」
武術の心得もあるラムーコ氏。参加者からシリーズ最後に予定している実技編をリクエストされていましたので、その実技もあるかも知れません。
✴MATの仙骨調整もお薦めです!
(こちらはドネーションで!)
日時:7月15日(日)10時:30~16:30
          (途中、休憩・お昼休憩挟みます)
場所:早良市民センター・視聴覚室 3F
参加費:4000円(事前振込3500円)
   ✴第1回参加者は初回と同じ
振込先:ゆうちょ銀行 
               記号17460  番号75728841
    四つ葉のクローバー はやかわ
以下は↑の続き♪

着地点、それは

『宇宙の完全性と、人間の設計の完全性の理解』

と言うものになります。


完全性の理解とは、完全であると言うことは、「永遠に未完成で在ることが即ち完全である」、と言うことの理解から始めることがまず必要ですね。


それは「完璧である事は生命の流動を止め、完成するということは死を意味する」と言う理解と表裏をなして、双方向を併せての理解となります。


そして人間とは、「宇宙を新生させる機構」であり、「存在の分離に寄って受動を生み出した存在自体が放った、宇宙を永遠に維新していくシステム」の事であると。


これらの思考に至る背景には、私の人生に於ける、仙尾骨の理解、仙骨武道を通した人体の理解、仙骨波動調整を通じての細胞存在への理解がありまして、その体系が結局のところ老子さんの説くところの「道」「無為自然」である存在世界の理解だっのですが、そこに理解不足の状態の私にもたらされたのが、「人類が神を見る日2013」でした。


ヌーソロジーとの邂逅は、1997年頃だった思うのですが、その出会いにより、私の仙骨武道の理解が一挙に開けた経験が有りました。それは人体への理解だったのです。

武道と言うのは、身体の事をやっている様で、実は意識の遣い手への修行な訳ですが、意識が身体とどう向き合って行くか?と言う構図に理解が至った訳です。


宇宙を理解するのには、「円心」の根本原理が腑に落ちて居ないと、一切が見えて来ない事が、身体を通じて衝撃的に仙尾骨に、腑に落ちたのです。


身体とは宇宙の反映なわけです。ですから身体と向き合うことは、存在世界そのもの、観える世界見えない世界の構造を、身体構造と、身体と空間の関係性の構図に、我々人類が見出す仕組みになっている、と言う事がヌーソロジーにより見え始めた訳です。


その理解によって、仙骨の調整方法を学んでいた学生の、約20人に一人しか認定を受けていないリーディングセラピストと言う、組織の内部認定を、劣等な生徒だった私が師から認定を頂いて、ようやく本当の修行へと踏み込んで行ったのですが、同時にヌーソロジーにものめり込んで行きました。

ヌーソロジーからの理解無くしてそうはなっていませんでしたから。


師から受ける薫陶、宇宙の理解、身体の理解、意識の理解が、ヌーソロジーと照らし合わせて行く事で、鮮やかに解けて行くのですが、元来頭でっかちな私には、物質世界の足元がままならず、組織に所属し続ける事が困難になっていったので、泣く泣く団体を出て仲間から落伍して行きました。


失意のうちに気力も無くなっていたのですが、有る意味、何も無くなった状態になった私でしたが、そんなタイミングで東京でヌーソロジーの勉強会が発足したことで、それ以降、長い付き合いとなって行くヌース仲間と邂逅する事になりました。


2000年前の中期?のヌースレクチャーの時は、出席したくても仙骨・武道の修行で出れなかったのですが、実はいつもレクチャーが武道稽古場の近くで、同じ日にやっていたのですが、それが後々レクチャー再開に至ると、何もしてませんでしたから、レクチャーに出れる様になった訳です。


それでレクチャー再開前、東京ヌース倶楽部に、参加していた私ですが、その時だけは元気が出て、勉強会にはほぼ毎回出ていました。


ヌーソロジー界隈で著名な友人達とはそこで仲良くなりまして、年末の忘年会には、わざわざ半田広宣さんも東京に出て来てくれまして、やがてヌースレクチャーの復活への流れへと展開していった時期でした。


その様に、現在の私が皆さんと共有していっている内容と言うのは、ヌーソロジーで半田さんがお伝えになっている、我々は奥行の存在なのだ、人間と言う構図はもう辞めにしなければならない、と言う点に尽きるのですが、その事は、言い方こそ明瞭さに欠けるかも知れませんが、古の多くの覚者や聖人も実は言わんとしてきた理解だと私などは思うわけです。


私の選んだ人生の中で、様々な宗教的な学びが繰り返されたのですが、大半は中山みき・・・現在は天理教教祖なんて言われてますが、中山みきは天理教なんて設立してないんですけけども・・・その中山みきさんの創造神話に触れる機会が圧倒的に多かったのです。


天理教の組織は、そこをちゃんと説いていないので、勢い私の方が反主流派で異端的なポジションに自ずとなってしまう訳ですが、宗教など拘らないその自由な立ち位置のお陰で、大本も日月神示も、その他もどんどん早い段階で学ぶ事が出来ました。


それで中山みきの言ったことはシンプルで、この身体は神からの貸しモノであり、人間と言うのは心の働き一つ何だと、見る事も聞く事も、見る者に関係するのも、世界とは自己である心の写し鏡なんだと、そうひたすらに50年間解き続けた訳です。


ここでは天理の神は、人間のその構図が理解出来ないうちは、実は何にも分からないと言い切っているのですが、子供の頃からそれを聞いてきて、鵜呑みにせずに自分で考えてきましたから、確かに物理学を知ると、物質世界は実体物はほぼ無くて、その殆どは真空でしかなく、世界も身体も何も無いんだから、神の言うことはその通りだなと受け止めていましたから、物質為らざる人間についての理解を深めようとして来ましたね、だいたい小学生四年の頃からですね。


ですから、ヌーソロジーではその人間とは奥行なのだ、それが素粒子なのだ、と言う言説には即反応して、あっこれだ、この事を明確にするのに存在世界の真相をひたすら追って来たんだ、と真理の響きをそこに直感しました。


化石はあんな様な生物がいたのでは無く、初めから地下に化石が出来たと言うのにも、長年持っていた疑問から即腑に落ちましたし、ビックバーンへの疑念ですとか、量子論のパラドックスなど、もう次々と腑に落ちるしかない、と言うヌースに出会えた喜びに今だもって浸っている様な感じです。


ですから、私が皆さんと共有したいのは、私達が奥行の存在であり、その視座に立てば、存在世界の真相は自ずから明らかになっていく、奥行から身体を眺めれば、そこに全部書き込んである、と言う理解なんですね。


その事に至るのに、ヌーソロジーを直に理解してけば事足りる訳ですが、その前に我々自身に自己が掛けている自縛観念、ゆだや的観念の自覚と解放が起きませんと、ヌーソロジーを聴いていても身に迫って来ないと言う構図に、20年間程ヌーソロジーを多くの人と共に学んで来て、多くの離脱者が出ていったのを知っていますから、我々がどこで分からなくなっているか?なんて事を見て取って来ました。


ですから私には、ヌーソロジー解説とか出来ない、数式が中学生レベルですから無理なのですが(笑)、私の出来るのは、身体の理解、仙尾骨を通してヌースが顕現していると観える私なりの視点を交えた事で、そこを結び付ける多面体、現物としての多面体に顕れている、存在の構造、意識の構造、人体の構造を、身に落としてみて眺める、と言う事だったんです。


それを『多面真体』なんて余り洒落てもいない名をつけて、多面体ワークショップと同時に話しを始めました。

こうなって行ったきっかけは、奈良に越してきて、全国から友人達が桜井の神社の隣の山小屋に、遊びに来てくれたことからでした。


そんな流れの中から、堀内亜紀さんの絵画奉納をやって、小野満麿さんと半田広宣さんにも奈良、大神神社に来ていただく事が出来ましたけども、そんな多くの仲間たちによって、始めの内輪話から、皆さんの前へと後押しされて、この様に皆さんの前で話すまでになって来たわけです。


仙尾骨の理解とヌース、多面体と身体、それがやまとことば、言霊ですが

ことば の目覚めが、空間認識に変容をもたらす鍵になっている、と言う事が皆んな絡んでいる事を見出して、呪の構図に歴史の改竄が大きく影響して、意識に空間認識の反転が起きない様にロックが掛かっている事を見て取って居るわけです。

それで、ことば と歴史を合わせて話しをしている訳なんです。


その呪、ロックの解析と解除を意識に顕在化させて、ヌーソロジーの伝えるところの空間認識の反転、奥行への描像を、大元の半田さんや、大御所のヌーソロジー解説の皆さんのお話や、小野満麿さんのお話しを聞いて貰うと、ヌースが如何に自分自身の話しをしているのか、と言う実感として聞く事が開けてくるんじゃないのか、と言うとだいぶ偉そうで申し訳ないんですが、呪の解除、歴史の見直し、日本語の見直し、そこから身体、多面体、能動知性へ、と言う体系を採って話しをしております。


ーーーーーーーーーーーー

着地点の話しが思わず長過ぎましたが・・・

ーーーーーーーーーーーー


この宇宙には、人間と言う機構とは受動であり、この受動は必然の設定であると言う事が出来るかと思うのです。


既に一巡りのサイクルが移り変わろうとしているこの時節に於いて、受動として働いていた自らが、能動であった事を想起していくプロセスをもってして、存在自らが受動と能動の交替化を為して、「永遠の廻り愛」を為し行く、人間とはそう言う機構なんだと言う事ですね。


これはある意味宇宙的な真求愛(まぐあい)であると言えるんだと思います。


存在自体その全ては初めから完全であり、故に人間と言う存在も、何も足すことも引くことも無いものです。

なぜならこの人間と言う存在様式こそが、存在自体が目指した処のもの、到達する処のものであり、人間と言うものそれ自体が、存在の永遠を担保する奇跡のシステムだからですね。


別の言い方をすれば、ずっと持続している存在自体、これを存在自らが自己確認する為の仕組みが、人間と言う存在であり、存在が創造した世界を受動に於いて観察する、能動から離れた視座を持つものが人間、な訳ですよね。


この能動から離れた視座を以って、能動の働き、創造されし世界は、それが此処に在るよね、と言う認識を、人間が能動へともたらす事になりますから、そこでやっと世界に創造がある事が言えるようになるわけです。


その様に人間と言う存在様式は、創造に意味と生命を与える、と言う捉え方もできる訳です。

既に生命は在るのですが、それは認識されることで生命が在る事を定める事が可能となった訳です。

世界に能動、創造の神だけでは幾ら世界を造ったって意味はない訳ですから。見る人がいない訳ですから。


人間でも、例えば料理を作ったと言うことでも、その料理を誰も食べないし見もしないと言うことですと、作ったと言う行いそのものに、意味が生まれてこないようなもので、誰かがそれを食べることで、料理した意味が与えられていくのだと、そう言う風に捉えて見たならば、似ていると思います。


ですから、人間と言う存在が、如何にして完全性をもって設計されていて、受動で有ることによって、世界に意味と生命を付与して、創造されたものは更なる発展を見て、時節の到来と共に人間が能動であることの目覚めによって、能動と受動の交替化を起こして、今度は神が人間へ、人間が神へと役割を交替して・・・まるで自作自演の様ですが・・・これから覚醒していく私たち人間の意識側は、新しき宇宙の大自然へと変態していくわけです。


時間も、今の感覚に則して言うと、時間を遡って、過去に出てきて、物質界、大自然として永遠に汝と我としてグルグル巡るわけです。


この世界とは実のところ、既に完全であるが故に、何も我々は心配しなくて良いわけです。

ここから進化しようと力を入れなくても良いし、元々完全である訳ですから、何かをしなくては行けない、と言う事も強制されはしないのですね。


でもやはり、「存在というものは進化していくべきものなのではないのか?」と思うこともあるわけですね、我々と言うものは。


完全であると言うこと、それはどう言う仕組みを持って機能し存在しているのか?


(続く)


第6回


存在とは実に、終わりなき無限であること、そして、再生と交替化と、差異の発展を得ること、この三つを持つ事が、存在の永遠の持続を担保している、と言う事を順に見ていきます。


仮に、一つのモノが、ひたすらズッーっと有る、在り続けると想定してみます。

この「想定してみる」と言う設定自体が本当は観察者が居てはダメなわけですが、シミュレーションの為に今は敢えてそう設定して考えて行きます。


ひたすらずーっと有る、しかし、それは変化もなく、動きもありませんから、実態としてそれが在るのだ、と言える状態が無く、つまり固定化、膠着している事になります。永遠にです。


この膠着している、と言うことは、全く動きませんから、変化しませんから、そもそも存在している、とも呼ばないし呼べない状態な訳です。

完成しちゃっている訳ですが、それは正に死を意味するような処に近いわけです。


それは在るとも認識されず、ずーっと固定化しているのです。

この状態では、ずーっと在り続けていると言う持続、と呼ぶ事は叶いません。

実情に則して捉え直してみれば、在り続けていると言えるのには、永遠に変わらないと言う事なのではなく、姿も位置も少し変わっていって初めて、あゝそれは前もあり今も在るのだ、とそれを呼ぶ事ができるわけです。


そうなりますと、持続の為には常なる変化が必要で得ると言う事になります。

それが正に、再生と交替化なわけです。時の経過により姿が移り変わって行くから前と後との経過を見て、永遠を得るのだと言えるわけです。






現物 関連ツイート

RT @7gsa: 例えるならBトップ2位で終われそうなオーラスで黙聴してそうな巨匠がいるのに聴牌崩して1位の現物切りまくるみたいな感じでしょ
@yuyu1P 現物が切れた時が見物ですね。
・・・消去法で、彗星なんじゃ?って話。
(ガス・塵の放出が観測された訳では無い)
実際に追っかけて現物確認する術が有れば良いんだけど。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする